2006年03月28日 最近
の自分感覚ですが、まあつらつらと。
話半分で聞くよろし。
ぶっちゃけ今更というかまたかよ的なところではありますが、
「面白いって何よ?」
とか考えていたりするからどーしようもないというか何というか。
いや、面白い=俺、とか言い切れればそれはそれで脳に心配はないのですが、
「それって自分にだけ通用するっていうかあー」
というのは自明の理であって、でもそれがベースに無いと書けないしなあみたいなことを考えておると、結局のところは、
「自分のネタを他に(……出来る範囲で(何でここ弱気なんだ))解るように書く」
という逆説的真理法(おお、偉そうだ!!)が出てくるわけでして。
ここまでが前回のターン。
今回はちと違いまして。
いや、同じといえば同じなんだけど、もはや理論とか分析とかヌキで、純粋に、
「面白いって何だろーなー」
みたいな。
いやホント、何だろーかなコレ。
まあ、面白いネタを書けば面白いよというのは理解できていて、だから超音速でパワーダイブ掛けてツッコミ入れたりしたらそれスゲエ面白いよなあとか思うのですが、そういうのとは別で、
「”面白い”ってのは、無限にあるよなあ」
ということなわけでして。
いやマジに無限にあるよ大宇宙あるよ。
わしとこれ読んでる人のCD棚の中身が寸分同じってことがあり得ないように(見たんか? 見たんかー?!)、たとえば貴方と貴方の背後霊の鈴木さんの趣味はきっと違う。何故なら鈴木さんは靴下派(同じだったらどうするんだ)。
ついでにいうとヒッタイトのマーケロスさん(仮名)はおそらく人類初の車輪式暴走族で脳内麻薬出していたと思うんだけど、わしああいううるさいのは苦手だしなあ、とか。
こういうものってのは、人それぞれというか、生命体×歴史それぞれ。
だから将来的に確実に無限化するわけでして。
んで、ちょっとここらへん、”言語”というものが完全でないがゆえのあやふやな言い方ではあるのですが、
「面白い」
ってのは、無限だとすると、どういう括りでわしら”面白い”ということを物言ってるのかな、とか。
いや、
「面白い」
という言葉で”それ”全体を括れてしまうのはよく解るのです。
が。
「無限のものを確固としてつかむことは出来ない=全ての”面白い”を言うことは出来ない」
わけでして。
だとしたらマジに、どーして”面白い”って言えるのかな的な。
だから、
「面白いものを書く」
と言っても、”面白い”全体から考えたら、それは、
「”面白い”の一部を”もの”として書く」
ということだよなあ、と。
その無限な”面白い”何かに対し、理解をわかりやすくするために、
「具体的な名称”面白い”を与えて括る」
ということを現状している、とは思う。
でも、それの形は上縁の果てのない逆さ円錐で、円錐の中にたまった無限の面白さはきっと果てがない。
円錐の先端を握ったとしても、比率的な本体はおそらくはるか上方無限の方向にあって、握った部分はほんの一部だよなあ、とか。
だとすると、
「面白い」
という一言で、形のない、無限的な(莫大な、というべきか)なものをわしら言葉として口にしているわけだ、と。
※余談
無論、これは言語というものの特徴で、”面白い”に限らず、”生””死”とかだって同じことになります。
だから円錐の先端と、ちょっと上のところを花山入って握撃して、
「自分の手が届く範囲の、その間にあるものを”自分の出せる面白さ”」
とすることは出来るのだろうけど、でも、そんなのは無限のうちのどのくらいなんだろうかなあ、とか。
無限的な面白さってのを、無限のままに出すこたできんのかな、とか。
今夜は曇天だけど、たとえば宇宙は目に見える範囲よりもあって、そっちの方が遙かに広くそして今目に見えている範囲はその”一部”だよな、と。
書き手が一個の星を作るとしたら、読者はその星の住人で、書き手が用意した”見える範囲の空”を観ていることになり、しかし親和的な位置にあると読み手が考えた作品(書き手が明言しない限り、親和的かどうかは”読者の判断”によると思う)群は読み手の意志によって星系を作り、その系が個性多重化すれば銀河化する。
でもそれでも”一部”だ。
どーなんだろ。
将来的に出るんかな。無限的面白さを持った本ってのは。
というか、作れるんかな。
作れるとしたら、どーいう手段によるものかというか、無限を包括するのではなく、無限を確固とする手段が禅以外にあるんかどうか。
うーむ……。
まあともあれ、そんなことをつらつらと。
んじゃまた明日ー。
話半分で聞くよろし。
ぶっちゃけ今更というかまたかよ的なところではありますが、
「面白いって何よ?」
とか考えていたりするからどーしようもないというか何というか。
いや、面白い=俺、とか言い切れればそれはそれで脳に心配はないのですが、
「それって自分にだけ通用するっていうかあー」
というのは自明の理であって、でもそれがベースに無いと書けないしなあみたいなことを考えておると、結局のところは、
「自分のネタを他に(……出来る範囲で(何でここ弱気なんだ))解るように書く」
という逆説的真理法(おお、偉そうだ!!)が出てくるわけでして。
ここまでが前回のターン。
今回はちと違いまして。
いや、同じといえば同じなんだけど、もはや理論とか分析とかヌキで、純粋に、
「面白いって何だろーなー」
みたいな。
いやホント、何だろーかなコレ。
まあ、面白いネタを書けば面白いよというのは理解できていて、だから超音速でパワーダイブ掛けてツッコミ入れたりしたらそれスゲエ面白いよなあとか思うのですが、そういうのとは別で、
「”面白い”ってのは、無限にあるよなあ」
ということなわけでして。
いやマジに無限にあるよ大宇宙あるよ。
わしとこれ読んでる人のCD棚の中身が寸分同じってことがあり得ないように(見たんか? 見たんかー?!)、たとえば貴方と貴方の背後霊の鈴木さんの趣味はきっと違う。何故なら鈴木さんは靴下派(同じだったらどうするんだ)。
ついでにいうとヒッタイトのマーケロスさん(仮名)はおそらく人類初の車輪式暴走族で脳内麻薬出していたと思うんだけど、わしああいううるさいのは苦手だしなあ、とか。
こういうものってのは、人それぞれというか、生命体×歴史それぞれ。
だから将来的に確実に無限化するわけでして。
んで、ちょっとここらへん、”言語”というものが完全でないがゆえのあやふやな言い方ではあるのですが、
「面白い」
ってのは、無限だとすると、どういう括りでわしら”面白い”ということを物言ってるのかな、とか。
いや、
「面白い」
という言葉で”それ”全体を括れてしまうのはよく解るのです。
が。
「無限のものを確固としてつかむことは出来ない=全ての”面白い”を言うことは出来ない」
わけでして。
だとしたらマジに、どーして”面白い”って言えるのかな的な。
だから、
「面白いものを書く」
と言っても、”面白い”全体から考えたら、それは、
「”面白い”の一部を”もの”として書く」
ということだよなあ、と。
その無限な”面白い”何かに対し、理解をわかりやすくするために、
「具体的な名称”面白い”を与えて括る」
ということを現状している、とは思う。
でも、それの形は上縁の果てのない逆さ円錐で、円錐の中にたまった無限の面白さはきっと果てがない。
円錐の先端を握ったとしても、比率的な本体はおそらくはるか上方無限の方向にあって、握った部分はほんの一部だよなあ、とか。
だとすると、
「面白い」
という一言で、形のない、無限的な(莫大な、というべきか)なものをわしら言葉として口にしているわけだ、と。
※余談
無論、これは言語というものの特徴で、”面白い”に限らず、”生””死”とかだって同じことになります。
だから円錐の先端と、ちょっと上のところを花山入って握撃して、
「自分の手が届く範囲の、その間にあるものを”自分の出せる面白さ”」
とすることは出来るのだろうけど、でも、そんなのは無限のうちのどのくらいなんだろうかなあ、とか。
無限的な面白さってのを、無限のままに出すこたできんのかな、とか。
今夜は曇天だけど、たとえば宇宙は目に見える範囲よりもあって、そっちの方が遙かに広くそして今目に見えている範囲はその”一部”だよな、と。
書き手が一個の星を作るとしたら、読者はその星の住人で、書き手が用意した”見える範囲の空”を観ていることになり、しかし親和的な位置にあると読み手が考えた作品(書き手が明言しない限り、親和的かどうかは”読者の判断”によると思う)群は読み手の意志によって星系を作り、その系が個性多重化すれば銀河化する。
でもそれでも”一部”だ。
どーなんだろ。
将来的に出るんかな。無限的面白さを持った本ってのは。
というか、作れるんかな。
作れるとしたら、どーいう手段によるものかというか、無限を包括するのではなく、無限を確固とする手段が禅以外にあるんかどうか。
うーむ……。
まあともあれ、そんなことをつらつらと。
んじゃまた明日ー。
