不定期俺日記ver.2

何というか適当に。



『昨今どうよ』

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  • 2008年06月15日んでもって

  • elm02s.jpg
    色違いウンディーネ。
    歌声で引き込むのはサイレンとされていますが、向こうの妖精物語なんぞ調べてるとウンディーネも同様のことしていたりで、要するに名称とイメージが年月を経て各地を伝播していく中で複合されていったりしているのだろうなあ、と。
    つまり、
    「うちの方のウンディーネはさ」
    とか、そういうローカルネタなどの”一カ所だけの存在個性”が、年月を経て幾つもの地域を伝播し、ウンディーネなど、それぞれの名の下に集まってしまい、”一つの存在に複数個の個性が入ってしまった状態を生んだ”ということなわけで。
    だから、そう言う存在に対して”諸説あり”というのは、実は正確ではない、と。なぜなら実際は「諸説を入れるための入れ物としての名前」だったわけだから。
    正解が先にあったわけではなく、諸説があって、それをまとめた誰かが何らかの理由で正解を定義した、ということで。
    たとえば「犬」と書いて誰もが違う犬を想像するけど、しかし基本は四足獣であるように、妖精とかは、人間が複数イメージを与えつつ、コンセンサスのあるイメージをとれるレベルとなった”存在”なわけで。

    ・イメージの最大公約数部分=コンセンサスのとれるイメージ部分
    ・上記を超えた部分=現在、諸説と言われる部分

    そしてこの最大公約数部分は、「正解」ではない、と。なぜなら発生の場から見たらそうじゃないわけで。
    何故なら諸説が集まって出来る公約数部分を”正解”と出来るのは、今がそれらの集合を見ることの出来る後代ゆえだから。
    後代にデータをかき集めた人が「基本的なパターン」として最大公約数を導き、しかしそれがいつの間にか「正解」に思えるようになったというだけのこと。
    その際、残されるのは「キャラクター性」の部分。切り落とされるのは噛み合わない「地域性」の部分。
    しかし、実在に触れていた人々は、地域性の部分でそのキャラクターと通じているわけで。
    神も精霊も、その地域の神性な土地に存在が認められる=同じ神や精霊でも存在するためには地域性を持つようになるわけで。
    だから、当時、妖精達が”実在”していた頃には、誰もが自分達(または土着)の”一説”でしか見えていない。そして当然のようにそれらの証言データなどまとまってもいなかった。
    実在に触れていた人達が語るものは全て”一説”で、後の人がそれをかき集めて最大公約数を作ったが、それはつまり、実在に触れていた人達は最大公約数を語っていないということ。
    だから、今、自分らが見ている最大公約数のそれらは、実在の時代において、どこにも存在していない。そういう、実在に触れていた人々が見ていたものではないものを、”正解”としてしまえるとしたら、それは不思議な話だとも思います。
    当時の人々に対し、今の定説を述べた場合、それは話先の土地性を失っているので、基本的な部分でのコンセンサスはとれると思いますが、「うちの方ではね」という話をされることになると思います。

    ※余談
    ここらへんが、
    「昔の人は精霊を見ることが出来た」
    という話に繋がりますな。
    ・今の人の考え方=「ウンディーネは水辺にいる」
    ・実在の時代の人の考え方=「水辺にはウンディーネがいる」
    これに土着性、地域性が入ると、
    ・実在の時代の人の考え方=「神聖な水辺にはウンディーネがいる」
    となるわけですが、彼らは地元のそういう場所を常に見て「こういう場所にウンディーネがいる」と思えるため、近似場所に気づきやすくなる=だから昔の人は綺麗な水辺を見ると「あのあたりにウンディーネがいるね」と即座に言える、と。

    ※余談
    多くの博物館が「ただ蒐集せよ」という方向性を持っているのは、それによって時代などをそのまま残す意味を持っているのだ、と思っています。つまり、”正解”を残そうとすれば、それは世界を蒐集するではなく、世界を切り取る視点しか残していないわけで。

    ※余談
    なお、学術研究などにおける神話や妖精物語の研究の大部分は、当時の文化や生活、それらの派生を知るために行うものですな。ルーツを追うことはあっても、正解定義を行うものではないと、自分の方ではそう捉えています。

    だから、神話とかもそうですが、こういうものに対して”間違っている””正しい”という線引きをするのは、それらを作り上げてきた歴史や文化、土壌などを忘れた、後発の不義理を思ったりもします。
    定説としての正解や間違いというのはあるかもしれませんが、実際のものが現役だった頃には定説なんてのも無かったわけで。
    少なくとも、今、そう言う風に語られるそれらは既に、それらが”実在”していたときのものとは違うだろうな、と。
    じゃあ何のための正解なんだろうか、とか。

    無論、異本イメージや資料などはあるわけですし、他のものと混じったら意味がない(ウンディーネ描こうとしてドライアドになったらそれはそれでアウト)わけで。
    しかし、描いたり書いたりする際に、いろいろと調べたりもするのですが、基本的には”正解”を追求するのではなく、”正解”も含めてみた上で、当時の人々のように、
    「うちの~はさ」
    とやれるようになりたいものだなあ、と思っています。

    ともあれそんな感じで。
    んじゃまた明日ー。

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    川 上 ですよ

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