不定期俺日記ver.2

何というか適当に。



『昨今どうよ』

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  • 2006年05月13日ぼけーっと

  • 自分の文章の構造を見直す。

    ※以下、写実とか叙情とか言ってますが、正確な意味ではないのでニュアンスとして捉えてください。
    また、他人はどーかなどと言ってるつもりはありません。他人は自分のやり方で出来てればそれでいいのです。
    ま、話半分で。

    んでまあ、自分の文章というのは簡単で、起きたこと、見えること、感じたことを時系列順に(取捨選択しつつ)書いていくことで、出来上がってみれば事件を完全に”再現している”状態にするものだったり、と。
    ドキュメンタリであるこういう写実系文章の特徴は、作者側の意図があまり入らず、キャラクターや情景が存在として”余計な意図無く”そのままでいられるという利点がある。(逆に言えば、キャラや情景が読者と距離をとってしまう欠点がある)
    起きていること、見えること、感じたことなどを作者が読者に作者の文章口調で説明して伝えるのではなく、作者の知覚言語で描写する。

    たとえば赤い花が一つあり、綺麗だと読者に伝えたいとする。
    叙情文では、
    「目のさめるような赤い色をした花があった。孤独に咲く美しい花だった」
    と書く(書くことも出来る、か)。
    綺麗かどうかなど、感性的な判断を作者側が行って定義するのが特徴。
    つまり読者は、本文以上に、作者の”こういう意味で捉えて欲しい”という意図に誘導されて読んでいく。
    これが対する写実文では、
    「赤い色がある。花の色だ。赤の花は野原に一つだけあった。他は緑の色ばかり。花は周囲と違う色彩として咲いていた」
    などと書く。
    こちらでは、その花が綺麗かどうかは読者に任せる。ただ、その花が”これなら綺麗だと通じるだろう”という素材的な描写は行う。
    叙情文はどちらかというと、一文でシーンや対象を書ききる。
    写実文は、文の一集合でシーンや対象を書ききる。

    また、写実系では一文が短くなる傾向(その一瞬で発生しているもの、受動出来るものを追っているので、一文が長くなった場合、それは読み手の体感速度ではそこだけがディレイされることになる)があり、また、改行が増える(文を連続できるのはその連続する文群で生じている出来事が”一個の対象を表現している場合”だけであり、そうでもないのに(書いている対象が変わったのに)文を連続させると読者側は今何を対象として書かれているのか判別できなくなる)。
    簡単に言うなら、ドキュメンタリが時制や対象ごとに改行していくのと同じで、写実系の文体は読者の体感時間や理解の対象を、句読点、句点や改行で操作する、と。

    そしてこういう自分の文章が他人にどう見えているかは、その人が己の読める文体についてどう思っているかによるものなので、こちらからはどうともいえなかったり。
    理想の文体や、形式を心に置いている人や、言語における文は一個パターンしかないという考えの人もいるわけですし。
    そして他人を判断するということは、その判断者自身を他人から判断させることでもあるので、もはやこちらが何か言う必要もないのではないかな的な。
    なお、写実型のタイプの文章の読み方や特徴については、高校二、三年の現国授業で読み方を習うものだったりします。
    ただ、人によっては合う合わないがあるわけで。
    こちらが出来るのは、上述しているような文章ルールを確実に守り、写実系文章としての完成度を上げることでして。

    んでまあ、何でそんな系の文章を使用しているのかと言えば、今においては、自分が自分の叙情的説明センスから生まれる”感性部分などへの意図による誘導”を、作品に対して邪魔だと思っているからです。
    自分の説明意図による誘導が介されることによって、対象のあるべき姿は対象そのものがもつ意図によるのではなく、作者側が見せた意図誘導に振られる気がする、と。
    その世界が現実にあるならば、読者は本を通した住人として読者のセンスで世界を見るはずだし、その視界をこちらの誘導で曇らせるのはどれだけ有りなのだろうか、とか。
    他の人はどーか知りませんし、他の人は他のやり方でやってるんだからどーともいう必要はありません。
    が、己の作るものに関しては、作品の表に見えるもの(文章)からは作者の意図を消しておきたい。
    その世界に見えるものなどは、その個性を鮮明に書くが、それに対する感性部分を縛るまい、と。
    同様に、キャラクター達の持つ意図についても、キャラクターの言動で書き、作者側で誘導はしたくはない、と。
    なぜなら、作品中のキャラクター達はキャラクターそれぞれの意図の上で動いているわけで。そこに作者の意図が介在するということは、その話におけるキャラクター達の意図が伝わるように出来ていないということだと、そう思っているからです。
    (重ねて言いますが、他人がやってる分には全然構いません。ソレがその人のやり方で、それで食っているのですから)。
    キャラクター達は、作者の意図無く動けるだろうし、それこそが世界をフラットに書くということだろう、と。
    自分という”作者”は、世界とキャラを作り、プロットを作った時点で十分に意図を含ませたのだから、あとは全て信じて自由にして、それぞれの個性を読者にしかと伝えていけばいいんじゃないか的な。
    作者なんてものは、物語をただ記録するだけのツールでいいんではないか、とか。
    そうやって表に見えるものから作者の意図が消えておきながら、何かが伝わったならば、それは読者に対し、作品の(表ではなく)中に含めた意図が通じたと言うことであり、自分が理想とする”作家”というのは、それを自在に出来る職業だったりします。
    読み終えたときに、書いてあるもの以上のものを得られる作品を作れる職業というか何というか。

    それらに対してどこまで出来るようになっていくかは解りませんが、まあいろいろ見直し頑張っていこう、と。
    そんな感じの思いを、また一段落ついた今また思ったり。

    と、そんなところで。
    んじゃまた明日ー。

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    川 上 ですよ

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